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トップスのチョコレートケーキの思い出 [思い出話]

まだ最初の会社で働いていた頃だから10年以上昔の話。

金曜日の夜に東京の同期女子二名らが急遽、
「そっち(大阪)に遊びに行く」と。
翌朝、彼女らのいる新大阪駅前のホテルに行った。

彼女らは朝の身支度で私を待たせてる間に
部屋の隅にある紙袋の言い訳?を始めた。

…お土産?
「昨日ね~新大阪でトイレに入ったらね~」
はい、駅のトイレで。
「置いてあったんだよ~」

……

「あんな時間だったし
(註:殆んど終電だった)
誰も持っていかないし誰も居なくなるし」

ああ、それは、しかし。

「トップスのチョコレートケーキだよ~
すーごい美味しいんだよぅ」


当時まだ、トップスは東京にしか無かった。
どこの誰か知らないが、
大阪へのちっとは気のきいた土産のつもりで
鼻高々で買ってきたにちがいない
きっちり包装されたトップスのチョコレートケーキ。
金曜の夜だ、単身赴任のパパが
家族への土産にと提げていたものかも?
(女子トイレだっつーの。)

彼女らは、ホテルに着いてから夜食にしようと、
しかし部屋にはナイフが無い。
「考えて」部屋に備え付けのコーム(櫛)で切り分けたらしい。

私は櫛で切り分けたチョコレートケーキを、食った。
彼女らの身支度を待つ間に。

だから私にとってトップスはトイレのケーキであり、
ビジネスホテルの櫛の味でもある。

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大きな鳥居と大きなウロのある木と [思い出話]

父の訃報は親戚関係は父と母のきょうだいまでに留めて
お通夜も葬儀もあまり数を呼ばずに済ませたが、
やはりその後に伝わった若干遠い親戚らからも
ぽつりぽつりとお悔やみの反応がある。
今日、お供えとして届いた盛り花がその一つで、父の従姉妹からのものだった。

父は大阪市内の下町で育った人だが、
太平洋戦争が激しくなる直前から戦後のどさくさ期までの数年にあたる
小学校の2年生頃から5年生の途中までを岐阜の田舎で過ごした。
一般に「戦時中の思い出」と称される類いの疎開話は
悲しい話、つらい話として語られるのが常だと私は思い込んでいたのだが、
元々言葉少ない父がポツリポツリと思い出して懐かしげに話す昔話には疎開先の風景が多かった。

丁稚奉公から成り上がった働き者の祖父と、
丙午生まれで「結婚は難しい」と踏まれた所為だろう、
当時にしては珍しく自立するに足るだけの経理の技能をもっていたという祖母は、
平時は商売に忙しく今ふうに言う「子育て」に心を砕く暇は無かったと思われる。
まして父は男ばかり四人兄弟の三番目。
商売人の家で何かと人手は多かった筈なのだが
長男大事の時代の三男坊なんて冷や飯食いが当然で、
しかも祖母は父より下にもう一人手のかかる弟を産んだ後病気がちになり
その時代にして入退院を繰り返したそうで、こうなるともう子守の手は父には及ばず、
あまつさえ生まれながらに口数の少ないウチの父はとかく「手の掛からない子」として扱われ、
小さい時分はたいてい家の二階の一室で「静かに一人で」いたという。
片耳の聴力を失ったのも
幼児期に罹った中耳炎をろくな治療もせず放置したのを慢性化させた所為らしい。
いいや放置した周りの大人たちを責めるのも気の毒だ、父は老いてもボケてからも
痛い苦しいの本当のところをじっと黙って堪えるクセが治らなかった。

そんな大阪時代よりも、疎開時代の、家の商売から離れた田舎の生活が
父にとっては本当の子どもらしい子どもで居られた唯一の時代だったのではないだろうか。
寄食先である祖母の実家への遠慮よりも
恐らくはその時期健康状態の安定した祖母も家に居て、
親戚が大勢あり、兄弟はもちろん、いとこも一緒にだんごになって野山を遊びまわったという、
子どもらしい楽しみが勝ったのではないだろうか。
妻子を疎開させて一人がんばっていた祖父も結局大阪大空襲で全てを焼かれ、
文字通り裸一貫となって大八車一つ引いて大阪から岐阜に身を寄せ、
それから戦後に身代を持ち直すまでの貧乏生活は思い出すのもイヤなものなのか、
父はついにその頃については詳しく語ることが無かったが、
疎開先で毎日通る道に大きな鳥居があったこと、神社の屋根を走って怒られた仲間のこと、
それから大きなウロのある木(ケヤキと言ったかクスノキと言ったか…)があったと、
病室で寝たきりのボケた父の脳に何が浮かんでいたのか、元より語彙の乏しい人で、
大きな鳥居まで行く道を説明し、大きなウロのある木があったとは言うのだが、
その懐かしい風景のあった時代に父が何をしてどんなことを思ったのやら、
いくら尋ねてみても私に分かるように話してくれることは無かった。

私がそんなことを知りたいと思うのは多分つまらない感傷というやつだろう。
「つまらん話」と自分に言い聞かせつつ、
今日届いた盛り花の送り主は父の疎開先に居た従姉妹たちで、
この人たちならあるいは父の言った風景をもう少し詳しく教えてくれるかしらと
つい思う。


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2004年12月16日(木) [思い出話]

最近はここに書くような出来事も無いので
ちょっと寂しいのでネタを一つ。

私が3年前まで在職していた某印刷屋(自称広告代理店)での話。
アルバイトとして入社した最初の年の師走、デカイ仕事が一段落した時期のこと。
穏やかに事務仕事をしていると、上司が近くにやってきて、曰く
「エムさん(←私の名前)にもすき焼き、あるから」
…?
「え?」
「すき焼き」
「すき焼き?」
「すき焼きセット
12月10日のボーナスの日に、すき焼き貰えるねん。
アルバイトの人にもちゃんとあるって、今、総務に聞いてきたから」。

話が全く飲み込めない私の横で、パソコン入力作業をしていた女性社員が
ぼそっと言う。
「そんなにヘンかな?」

ヘン?ヘンだ。「?」は要らん。
聞いたこと無い。

冬のボーナス支給日に、すき焼きセット(2人前)が全社員に配られるのだという。

「けっこうエエねんで、ちょっといいお肉と、ちゃんとお野菜もついてて、
卵に、お餅まであるねんで!」

会社があるのは大阪ビジネス街の真ん中。
バブル期に調子こいて建てた自慢の自社ビルは鏡張りで「いかにもオシャレ」だ。
従業員の数もそこそこ、当時は全国に400名くらい居ただろうか。
(今はもう転職者が相次いだり、人員削減しまくったりで、従業員数は激減してるらしいけど)

すき焼きセットは確かにりっぱなもんであった。
貰えるんならありがたく頂戴しますとも。
しかし、りっぱなすき焼きセットって、かさばるんだよ。
結婚式の引き出物くらいの紙袋に入っていた。
近所の他社の方々らにとっては、不思議な光景だったろうなあ。
毎年、冬のボーナス日に、鏡張りのビルから引き出物を提げた人が
ぞろぞろぞろぞろ出て来るんだもん。
当然、この日はナマもの持ってるから、従業員らは寄り道できん。
家族が待つ家をまっすぐ目指すしかない。

多分、そもそもは懐の賞与に浮かれた社員が、
一杯ひっかけてる間に大金を紛失したり、盗られたりするのを案じた雇主が、
「親心」で思いついた策だったのではないだろうか。
すき焼きセットを持たせたら、
一杯ひっかけて帰るわけにゆかなくなるから。
(ボーナスの日のご馳走が「すき焼き」だという発想がそもそも、昭和初期。
向田邦子の世界だ!)

そう、すき焼きセットよりも私を驚愕させたのは、
この会社がその時点でボーナスを現金支給していた事実。
これも私、上司から聞いてビックリしてたら、上司は言ったね、
「いやいや、まだまだ。
つい何年か前まで、給料も現金支給やってんで」。

さすがに今は、ボーナスも給与と同じ口座に振り込まれているが、
すき焼きセット支給の慣習は、
狂牛病騒ぎのときに鶏すきセットに変更された以外は、
この冬に至るまで続いているそうな。


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